自然の中で感じる霞の風景には、
曖昧で優しい美しさが宿っています。
それは日本人の感性に深く根ざし、
言葉の表現にも影響を与えています。
人生の不確かさと重ね合わせ、
私たちはどんな意味を見出すのでしょうか。
霞の中に見つける春の兆し
ひさかたの天の香具山この夕 霞たなびく春立つらしも(柿本人麻呂)
この句は、
香具山の夕暮れに霞がたなびく様子を描きながら、
春の訪れを感じさせています。
霞の存在が、
春の立ち上る兆しを静かに示すとともに、
春という季節が持つ柔らかさ、
優しさを象徴しているように思えます。
霞が立ち込めることで、
目の前の景色が少しぼやけ、
はっきりと見えない中で感じる春の訪れは、
「曖昧さ」の中にある美しさです。
このことから、
私たちの人生にも
「はっきりと見えないけれど、確かに感じるもの」
があることを思い起こさせてくれます。
時に不確かな状況や予感の中で、
次のステップや希望を感じ取ることができますね。
霞の中に春を見つけるように、
私たちも曖昧な中で
新しい始まりを迎える準備が
整っていくのかもしれません。
言葉に宿る曖昧さ—日本人の感性
日本語には、
他の言語にはない曖昧さが宿っています。
それは、物事をはっきりと断言せず、
余韻を残すような表現に現れます。
この曖昧さは、日本人の感性に深く根ざし、言葉そのものに豊かな情緒を与えてきました。
大伴家持の
「ひばり上がる春へとさやになりぬれば 都も見えず霞たなびく」
という句には、
春の訪れを感じさせる自然の光景が描かれていますが、
都が霞に包まれ、その先が見えないことで、
春の到来が漠然と…
しかし確かに伝わってきます。
「春へとさやになりぬれば」とあるように、
春の兆しを感じつつも、
その実感がどこか遠く、
やわらかなものとして描かれています。
この曖昧さが、日本語における美しさの一つであり、
私たちが自然の中で感じる感覚とも重なります。
はっきりと形にしきれないものを大切にし、
その中に豊かな意味を見出すこの感性が、
日常の会話や文化の中でも重要な役割を果たし、人々の心に響きます。
「占庵コトノハ」でも、
言葉の奥にある”大切な気持ち”や
潜在意識や潜在能力を引き出すお手伝いを、
やがてくる春の訪れのように
やわらかく意識レベルまで向上するよう
努めてまいります。
春の霞に感じる、人生の曖昧な道
道家の教えにおいては、
「道(タオ)」という概念があります。
「無形で無限であり、自然に従うこと」とされ、
その道がしばしば混沌としていて、
はっきりと見えない状態にあることが言われます。
老子は
「道は無為であり、物事を無理に変えようとせず、自然の流れに任せるべきだ」
と説いています。
道は明確に見えるものではなく、
霧の中に包まれているようなもので、
その混沌さが「道」であり、
そこに人間が進むべき道である、
と説いておられます。
春の霞は、どこか儚く、そして穏やかな印象を与えます。
霞に包まれた風景は、
視界がぼやけることで、
未来がまだ見えないような感覚を呼び起こします。
この景色は、人生の道のりにも似ているかもしれません。
目の前に広がる道がはっきりと見えないとき、
私たちは一歩踏み出すことに迷いが生じることがあります。
けれども、その霞が示すのは、
不確かな中にも確かに進むべき方向があるということです。
何もかもが明確に見えるわけではないけれど、
その中に潜む可能性を信じ、
一歩一歩進んでいくことこそが、
人生の美しさであり、曖昧な道を歩む勇気でもあります。
春の日差し、霞の向こうに広がる夢
冬過ぎて春来るらし朝日さす 春日の山霞たなびく(詠み人知れず)
寒い冬が過ぎて、
ようやく春が顔を出す瞬間。
その朝日がパーっと山を照らし、
霞がふわっと広がっていく様子はまさに新しいスタートを感じさせます。
春の訪れを告げるこの光景は、
人生の新しいページが開かれたかのような、
ワクワクした気持ちを呼び起こします。
ワクワクした気持ちを呼び起こしてほしいのです。
冬の厳しい時期を乗り越えたあなた。
春の温かさや光は、長いトンネルを抜けた後の景色です。
霞がかかっているかもしれません。
しかしそれは、新しい始まりを暗示しているのです。
春の到来は希望の象徴。
少し霞がかかって見える景色を、楽しむ心の余裕を持てるのが、
春の魅力です。
新しいチャレンジの時です。
明るく、元気に進むあなたを応援しています!
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